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  1. 日紡貝塚(2)
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横山樹理は

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月24日(金)11時26分21秒
  日本のエース、世界の5本の指に入るアタッカーと言われて大活躍したのは78年世界選手権~幻のモスクワオリンピックまでですね。ネットから離れたトスか得意でブロックの横を抜くスパイクやブロックをパワーでぶち破るスパイクは素晴らしいです。日立中心の全日本でも人気は一番ありました。レギュラーで金メダル取らせたかった選手です。  
 

飯田高子

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月24日(金)11時22分7秒
  ミュンヘンオリンピック決勝戦の終盤のサーブミスを人生における屈辱と言ってますが苦労人です。モントリオールで金メダルが、取れて良かったです。  

飯田高子

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月24日(金)11時20分32秒
  彼女も伊勢湾台風で被災してます。  

私の最初選手

 投稿者:アルタガモワ  投稿日:2019年 5月24日(金)09時52分34秒
  私がバレーもアニメしか知らない時も何故か「横山樹理」だけは知ってました。
なのに・・・気が付けば81年Wのもうとっくにピークを過ぎだ悲しい姿しか見てなくて・・・彼女がイケイケ時代の女子バレーが見たいです。
 

「バレーボールマガジンとともに歩んだ10年」横山樹理選手

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月23日(木)21時08分16秒
   こんばんは。

 私事で恐縮ながら、私の「すいか」は本名です。今はSNS時代ですから、それほど詳しくはお伝え出来ませんが…男女兼用にもなり得ます。『それこそ、漢字の~子がいい、という両親を押し切り、カタカナ名(戦時中は、横文字禁止令が発令され、漢字に改名させられていたそうな)の祖母が命名しました。名前に関するネタを失礼しました。

 昭和48年は、バレーボール史上でもエポックになった一年のようです。松村勝美・山下規子選手(ともにユニチカ貝塚)ら戦中生まれの選手がほぼ引退、入れ替わって横山樹理選手が同じユニチカに入団したのです。カルバハルさんがおっしゃるように、同年同期入社は俊英揃いだったようですね。しかし、その中でも、横山選手こそ一番星だったようですね。

 決してリアルタイムではない、むしろ娘世代の私から見ても『とにかくダイナミック&明るい』。彼女の引退戦となった世界選手権でも、とても引退間際の選手のプレーには見えない
ジャンピングスパイクを放つシーンがありました。無論、トスは長年の名コンビ・小川選手。
個人的には、明るい選手系譜というのがあれば
「生沼スミエ→白井貴子→横山樹里→三屋裕子」
各々選手、ではないでしょうか。その後も、明るいだけの選手ならいたかもしれませんが、
チームが強くなければ…。皆、四者四様の個性の持ち主、それぞれ別な意味で明るい選手のように思われます。横山選手の入団と同年、昭和48年秋創刊のバレーボールマガジンには、彼女の引退直後
このような見出しで10周年と銘打たれていたようです。

 横山選手の引退間際にデビューした三屋選手、ニックネーム『サイ』の由来が『うる“さい”』からだったとは。更に『三ツ矢サイダーのサイでしょ』、とも。完全に動物のサイや秀才のサイを否定しているようです。『三屋ひょうきん教室(オレたちひょうきん族に因み)』も
おもしろかったですね。

 最後に。今でも、三屋選手と広瀬選手とは交友があるようなのがなによりでした。4年前の
広瀬選手とのテレビ共演も、三屋選手が強く働きかけたからではないでしょうか?第一線から退いて久しい、それも名古屋在住の広瀬選手がよもやの…だったようですね。
 

東京オリンピックの決勝戦

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月23日(木)20時51分49秒
  美智子皇后は試合を観戦してますが天覧試合ではないですね。意外とバレーボールの場合は国体とかで、あったかもしれませんね。バレーボール界は高校以外は国体は、あまり重要視されてません。昔は成年男女、少年男女な他に教員チームのトーナメントもありました。インターハイは開会式は知ってますが高校野球が始まり閉会式は見たことないです。沖縄本土復活した時に沖縄国体とか、でっこにあった、気もします。また昭和39年東京オリンビックの年は新潟国体は前倒しに実施されたような気がしまます。戦後復帰の為に国体を開催してスポーツ施設を充実したスポーツにたいする健康意識など根付かせる為の国策でしたが各都道府県一周した今は、あまり一流アスリートは重視しない国民体育大会になりました。  

あのキューバが、もっとも強かった時

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月23日(木)20時40分39秒
  https://youtu.be/N9WcjP-RvGM  

天覧バレー

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月22日(水)05時39分0秒
   おはようございます。

 バレーボールの歴史において、天覧バレーが挙行されたことはおありでしょうか?
私自身では確認できていませんが、もしかしたら東京五輪(昭和39年の、ですよ)では、昭和天皇・皇后さまがご覧になったかもしれません。

 度々引き合いに出して恐縮ながら、プロ野球では2試合。公式戦1試合と、日米対抗1試合です。公式戦では、昭和34年6月25日、後楽園球場での巨人対阪神11回戦。5対4で巨人が勝利。
長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打(実はプロ初の…)を放ち、天覧ホーマーとして後世に語り継がれているのです。
7年後、昭和41年11月6日には、同じ後楽園球場で、全日本対ドジャース第13戦がやはり天覧試合となり、11対3で全日本が勝利。長嶋選手は本塁打を含め、4打数3安打と大活躍。皇族ご用達の名を恣にしました。公式戦ではないため、それほど知られてはいませんが…。
意外や意外?全日本は先発は堀内恒夫投手(巨人)でした。さすがの“13連勝デビュー”“小天狗”も、天皇・皇后のご覧になる真正面とあっては緊張だったのか、早々にKOされましたが、やはり強運を発揮した?のか敗戦投手にはならず。
その後、50年以上も天覧試合は挙行されていないのです。再度の引き合い失礼しました。

 バレーボールにおいても、皇后杯は既に昭和58年当時は行われなくなっているようで、その後も開催された史実はないようです。先日生前退位された、美智子皇后にこそご覧になって…とも
存じましたが、お見せできるだけのメンツ、そして試合内容になったか…。

 そして、来年行われる予定の五輪は、とても今上天皇・皇后さまにお目にかけられるメンツ、試合にも、バレーボールはなりそうにないですね。
 

「~子」のつく名前の10選手

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月21日(火)10時50分25秒
   もう一件失礼します。

 カルバハルさん、こちらにもご返答ありがとうございます。言われてみれば、皇族には漢字の「~子」さま、のみですよね。ほぼ。ミュンヘン五輪代表の10選手とも、戦中~戦後まもなく
(昭和20年早生まれの山下選手~昭和27年生まれの白井選手)ですから、世相的には皇族の影響を強く受けられた親御さんが命名されたのでしょう。特に、塩川選手の「美智子」、白井選手の「貴子」とも、皇族にも命名されそうな高貴なお名前。
 

「ジプシー・ロッテ」「ジプシー・ヤシカ」は同時期なのですね

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月21日(火)10時38分30秒
   おはようございます。

 カルバハルさん、そうですか、ヤシカは自軍の体育館(本拠地)がなかったのですか。それは意外です。それこそ、下町にありそうな気もするのですが…。
「五輪では連続背番号3(偶然とはいえ)」
岩原豊子さんは引退後、チームの解散までコーチを務められたとも初耳でした。

 その昭和40年代、ヤシカとはほぼ同時期にプロ野球でも「ジプシー・ロッテ」が実在しました。祖父や叔父はよく、南千住にあったロッテの本拠地・東京スタジアムに、プロ野球(ロッテ戦だけではなく、巨人戦やサンケイ戦も)はもとより、1周450mのアイススケートにも足を運んだ、といいます。同所閉鎖後は、なんと仙台に移転…というより仮住まいを設けました。それでも、昭和49年には日本一に。但し、金田正一監督(当時)は『あまり注目されなかったな。これもジプシーの悲哀か…シゲのせいで』と苦笑したといいます。金田さんの盟友・長嶋茂雄さんの引退では無理もなかったでしょうね。プロ野球との引き合いを長くしてしまって失礼しました。

 最後に。ジプシーといえば、初期のダイエーでしたね。神戸市西体育館(私も存じ上げています)完成以前は…。できれば、あと1年広瀬選手にも現役を続けてもらって、その西体育館でも
「ユニチカ対ダイエー」で郷里(というほどでもないですか)の晴れ姿を…とも思いましたが、
あれだけ感動的な(全力を出し尽くした、という意)引き際なら納得、です。
 

ジプシー

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月21日(火)07時14分25秒
  ヤシカは体育館も持たず、よくニチボーや日立と3強とまで言われたものです。日本電気にチーム移籍出来て結果良かったと思います。オリンビックの後に選手の世代交代がある時に主力が残り日本一になったのも、やはり強化が、ままならないのは体育館を持たなかったのが原因でないかと思います。選手は決してニチボーや日立に負けない素質の選手が多かったです。古田、飯田は74年世界選手権の金メダルリストです。大卒で活躍した選手です。古田は180センチあって、セッターも出来る器用な選手でした。ヤシカはレフトセットアップや試合中に選手を替えないでワンセッターからツーセッターに替えたり、面白いバレーボールをします。  

生沼さんは偉大だ…

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月20日(月)21時36分23秒
   また多重投稿になってしまいそうなので、もうこの辺りで本日は引き揚げさせていただきます。

 こちらにお世話になってからというもの、すっかりハマってしまった生沼スミエ選手、改めて偉大な方と実感。
一度引退しても、なお五輪レベルの実力を維持できて、敵将・小島監督からもなくてはならない存在として重宝される。
生沼さんの蔭で、メキシコ五輪では(義理の姉妹コンビの)小野沢選手-古川選手とも出番がなくなってしまった?(記録ゼロなんですか?)ようですね。でも、面白いもので、このお三方同士は戦友としてだけではなく、仲良しのようです。
日ソ決勝戦、スパイクアウトでゲームセット、戦犯扱いされて居た堪れなくなる…それは生沼さんでなくても追い詰められます。よくぞ、その窮地から這い上がってきたものです。背番号11から、わずか1年で背番号1の主将になったのも、山田監督との信頼関係の賜物ではないでしょうか。
 

バレーボール

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月20日(月)21時23分54秒
  今でも3セットマッチと5セットマッチがあります。一回戦や二回戦は三セットマッチが多いです。そうなるとダブルヘッターは可能です。また6人制で始めて三鷹高校が生沼が二年の時にインターハイ優勝した相手は同じ東京の高山鈴江の居る宝仙高校と決勝でした。生沼は3年生の時はすでに日立武蔵で練習してました。生沼はいつの間にか日立で入社して練習してたと言ってました。生沼は宍倉とミュンヘンオリンビック前に復帰しましたが背番号は11番、宍倉は12番で、既に復帰組は背番号は大きい番号の風習はあったんですね。また市立尼崎、氷上より甲子園学園の方か早くバレーボールで全国制覇してます。神戸には夙川女子学園も、なかなかバレーボールも強いです。  

ロス五輪の「美しき戦士たち」の再発見

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月20日(月)21時16分33秒
   続けて失礼します…

 まずは、カルバハルさんにお礼を申し上げなくては。
そうですか、アジア大会で、それも相手はタイでしたか。40年前、は合っていたのですが(汗)。時代は変わった…切ないですね。

それでは、ロス五輪の「美しき戦士たち」について、今更ながら感銘を受けた再発見があるのです。
一…4年前の秋、江上(現・丸山)由美、三屋(現姓は?)裕子、広瀬(現・中島)美代子3選手が、全日本女子の練習を見学。これがフジテレビのあるバラエティ番組にて報道されたそうですね。これが、往年の名選手・江上、広瀬両名にとっては最も最近の近況のようですね(三屋さんはいつもテレビに出ているから)。「コミュニケーションを図るための練習」に、上記歴戦の3名も、カルバハルさんも疑問だった、と。できれば、今度は、全日本及び日立の後輩の率いる全日本女子の練習を見学して刺激していただきたいですね。

二…五輪後、大谷佐知代選手が伸び悩んだのは、裏金や大人の事情(一浪)、太りやすい体質以外の面を挙げるなら、
『二刀流になれなかった』。また現代大リーグの同姓の選手と比較して…と言われそうですが、実際そうみたいですね。見た目は、豪胆そうで、サーブやスパイクなど攻撃にたけていそうですが、実際はかなり繊細な面があり、大柄な体に似合わず!?レシーブのほうが得意だったみたいですね。当時『実戦的なプレーヤー』『ミスが少ない』と評価されていたようですから。
それにしても、ソウル五輪にも出場ならかったとは、当時誰が想像しえたでしょうか。

ロス五輪・カルテット(現・監督は除く)ように早熟で終わってしまうか、対照的に石掛選手のように、遅咲きの花を咲かせるか、皆さんはどちらのほうが印象深く映りましたか。

 どちらも、過去ログから発見しました…。
 

子のつく名前

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月20日(月)21時08分1秒
  皇族や高貴な人がつくのが子です。美智子様が子が皇室以外から皇室に入り子のつく名前とブームになりましたが時代と共にキラキラネームに変わりました。学校の先生は出席を取る時は読み方に困ってるらしいです。昔は薫、真琴、ミチル、のりよ、あきら、ひろみ、のぞみ、照美なと男女どっちも使える名前は教師が間違える事もありました。、また、国際的に通用する名前で、ナオミ、ジョージ、亜里沙、まり、なども使いますね。益子直美は国際的に通用する名前です。またぎゃくに太郎とかの名前だと有名で海外に行っても日本人の男の子と即、理解しらえて良いとも言われてます。  

甲子園(学院)の榊原(紀子)

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月20日(月)20時54分31秒
   皆様こんばんは。

 連続長文投稿失礼しました。帰省していたもので…(汗)。土産話に?兵庫県ならではの話題を持ってきました。
カルバハルさん、ご無沙汰しました。いつもご丁寧にありがとうございます。
バレーファンの皆様からご覧になれば、野球は不思議なスポーツと見えるでしょうか。ダブルヘッダーがあるのも(尤も、21世紀に入ってからはドーム全盛となり、死語になりましたが。)、引き分けがあるのも。

 そのプロ野球選手の娘、トヨタ自動車に所属していたバスケットの榊原紀子選手。私事ながら、同郷で同学年です。以前、おっしゃっていた、彼女はバレーの名門でもある西宮市・甲子園学院出身。幼少のころはバレーボールをしていたそうですが、小5の時バスケットに転身した、と。バレーボールを続けていたもらいたかったですね。そうすれば、かおる姫・鈴木洋美・高橋みゆきと切磋琢磨して名選手となり、バレーボールの長い凋落もなかったかも。

 榊原選手の父・良行さんはプロ野球、阪神の選手(二塁手)で、これも先述いただいた真弓明信選手と一、二番、そして二遊間も組んでいました。江川投手デビュー戦時の相手二番打者。スポーツ一家なのです。

この榊原紀子選手、同世代のトリオが見たらうらやむほど、長い現役生活を送ったようです。つい数年前まで、バリバリの現役、MVPにも輝いていたようですから。
 

アジア大会

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月20日(月)20時52分53秒
  78年のアジア大会です。相手はタイです。最初のサーブ権はタイにありました。サイドアウトになり、水原がサーバーでサービスエースでは無いですが、15本打って、その後1回もローテーションにしない完封試合でした。今は日本がタイにストレート負けしますから世界は変わりました。そのアジア大会で郎 平が国際デビューした大会です。横山残す同期の金メダル組が引退して金メダリストでない同期が入れ替わる時期です。矢野、吉田、高柳がナショナルチームから外れて、同期の石川、清水、吉永、滑川、千葉などが横山と活躍します。この黄金世代で一番早く世界デビューしたのは中村高校からヤシカに進み73年レギュラーでないが世界デビューしたのは川口朱美です。高校ビッグスリーと言われたのは川口、横山、吉田です。更に深掘りすると吉田は高校2年で久喜高校でインターハイ、ベスト4と活躍して3人の中でも一番早く名前が知られたのです。また同期の増穂商業から日立に進んだ矢野広美は中学の時は、合唱部でバレーボールを本格的に始めたのは高校からですがナショナルチームのレギュラーになったのは一番早いです。74年の世界選手権では、もうレギュラーで金メダルを取得してモントリオールオリンビック、ワールドカッブと三冠王センターです。第3回春高、優勝の高柳はモントリオールでナショナルチーム入りレギュラーとして1セットも落とさない神の領域に行ったモントリオールオリンビックのレギュラーで、その後は怪我もあり控えでしたがレギュラーで活躍したのはモントリオールオリンビックだったのはラッキーです。吉田もモントリオールからナショナルチームのメンバーに入りワールドカッブ77で白井の対角のレギュラーで活躍して日本開催だったので一挙に知名度が上がりました。横山樹理はインターハイで優勝で一挙にスーパースター誕生と高校バレーボール界で名前を売り鳴り者入りでユニチカのルーキーでエースになり絶対王者日立を向こうに回しユニチカで孤軍奮闘してナショナルチームでも人気はナンバー1でしたが日立の、早いバレーボールとは一線を、かきナショナルチームではレギュラー候補でしたが最終的に控えでワンポイントアタッカーでドカンとスバイクを決めてチームの流れを変える役目が74年世界選手権~77年ワールドカップまで続き77年で同期の吉田に先にレギュラーを取られ、後輩の江上が先にレギュラーに入りましたが、78年世界選手権からは白井無き後は日本の誇る世界に対抗出来るエースとして横山樹理がナショナルチームの顔になりました。横山に以上の素材の須藤とは78年世界選手権ではエース対角を組、銀メダルを取りましたが横山とのエース対角で活躍したのは78年だけなのは残念です。横山の対角は吉永や奥嶋がモスクワの幻のオリンビックではつとめましたが不参加で終わり横山の対角はレシーブの神様、ブラックアウトの名手、鋭いストレート打ちな広瀬に変わりました。もうその時はエース横山も素質だけは世界レベルの杉山加代子の方が明らかに上でした。長い横山の現役生活も82年の世界選手権で小川、水原と同じ時期に引退となりました。  

トーナメントなら

 投稿者:カルバハル  投稿日:2019年 5月20日(月)20時13分0秒
  1日2試合もあります。  

バレーでは「ダブルヘッダー」はない?

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月17日(金)05時42分21秒
   タイトルの件が終わっていませんでした。失礼しました。

 バレーボールにおいては、1日2試合以上(特に同じカード。日本リーグのようなリーグ戦形式)の挙行はあり得ないのでしょうか。やはり、下記のように消耗の激しいスポーツ故。

 引き合いに出して恐縮ながら、バドミントンはむしろ1日複数試合する、というより遣らざるを得ないようです。なんといっても、ミュンヘン五輪、エキシビジョンだったときは(問題のテロ前日)9月4日の1日のみに女子シングルス、男女混成、と1日何試合も行われた様ですから。個人競技と団体競技の差でしょうか。

 最後に、余談恐縮ながら、以前「北海道芦別市は全日本のホームタウン」と紹介させていただきました。その北海道でこそ、バドミントンが盛んなのです。特に自衛隊バドミントン部。せっかく北海道がホームタウンなのです、ぜひとも北海道にもⅤリーグを誘致してはいかがでしょう。私案にすぎませんが…
 

バレーにおける試合時間と「ダブルヘッダー」

 投稿者:岡本 すいか  投稿日:2019年 5月17日(金)05時35分24秒
   おはようございます。

 以前、こちらでカルバハルさんが紹介してくださったエピソードかと思います。今から40年前、フィリピン遠征でのフィリピン戦。同チームには3対0とストレート勝利、特に第3セット15対0だったのですが、なんと、その時水原理枝子選手のサーブだけで連続15点だった、と。
恐らく、試合時間30分(違っていたらゴメンナサイ…)以内だったのでは?と。

 そして、今では『フィリピンチームの強化と、対照的に日本の弱体化もあって、まずあり得ないのでは?」とも。
但し、これはなにかの大会だったのか、全日本での試合か、またユニチカ単独チームでの試合だったのかまでは記憶にございません。教えてくだされば幸いです。

 対照的に、もし長時間記録があるのでしたら、やはりミュンヘン五輪決勝ではないでしょうか。3時間30分だったように伝聞しています。生沼選手は全5セットフル出場?当時25歳、それは疲れ切った顔だったはずです。最早悔し涙も出てこない…。傍らの白井選手は元気いっぱい、
悔し涙に暮れている様子が映し出されていますね。
 

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